黑猫寫眞館

黑猫寫眞館〔8〕

かちゃんと音を立ててカップを皿に戻すと、真っ直ぐ彼を見た。
「……何故、俺なんだ」
「この世の全ては必然であるだろうよい。お前と会ったのだってそうだろう。最早逃げられはしないよい」
その曖昧な問いに、彼は即答した。その迷いのなさに心がぐらりとした。
「そんなの……信じねえ」
「信じるも信じないもお前次第」
見透かされたような言葉が悔しかった。でもそれは、彼を気になるのを止められそうもない自分に対する腹立ちだと解っていた。
きゅっと唇を噛んだ自分に彼がふっと息を吐いた。
「エース」
「……おう」
「俺の写真なんて、どうするつもりだよい」
唐突なその言葉に、一瞬びくりとしてしまった自分を恨めしく思った。しかし背を伸ばして言い返す。
「……何のことだ」
「気付かねえほど呆けてねえよい」
「……知らねえ」
「……」
それでも言い張ると、はあっと今度ははっきりと息を吐いた彼にびくりとした。
彼はそのままぐるりと室内を見回す。客用のそこは、そんなに荷物は多くはない。サボが居たころよりは若干自分の荷物が増えはしたが。
華奢な飾り棚にカメラがいくつか置かれているのを彼がちらりと見た。そしてふ、と壁のポスターに視線を止めた。思わずつられて自分もそれに目をやる。
それはいつか、みんなで出かけた時に撮った写真で、小高い丘に綺麗な花が咲いている風景だった。空はどこまでも青い。
それをポスターにして宣伝用に配布しているものだった。ポスターの下には小さく店名と電話番号が記されている。
「綺麗な写真だ。お前が撮ったのか？」
「……おう」
元々その写真は、みんなで出かけた記念に、とごく個人的に撮ったものだった。サボがこれをポスターにすると言った時は正直驚いたが、彼がエースの写真を認めてくれたのは素直に嬉しかった。
「黒猫写真館……ね。黒猫っておまえにぴったりだねい」
ぼんやりとあの時のことを思い出す。彼の言葉が少し遠く聞こえた。
「そんなことは……」
そして、エースは黒猫のようだ、と言ったサボの言葉により、この写真館の名前は決められた。ここの主はサボだろ、と反論したけれど、彼はやんわりと笑って、エースはいずれもっと才能が花開くと思うよ、と言った。彼はこの現実を想定していたのだろうか。それとも。
「……誰のことを考えている？」
彼の言葉にはっと現実に引き戻される。
「え？」
「遠い目をしていた。愛しいと、言っているようだったよい」
「いや……俺は」
彼は立ち上がると、ぐるりと硝子のテーブルを回ってこちらにやってきた。思わず自分もがたりと立ち上がる。彼は黙って此方を見詰め、そしてそっと此方に手を伸ばした。何故か動けないまま、それはやさしく頬に触れた。暖かかった。夕暮れの光は窓から赤く差し込み、足元に長い影を作っていた。
彼の手のひらが頬を滑って肩に触れ、背に回る。
彼の胸に抱き寄せられる。服に顔を埋めるとふわり、と微かによい香りがした。彼に香りだ、と思ってから、はっとした。「やめろ！」こんな風に、なし崩しに触れられてばかりだ。
確かなものなんて何もないのに。だけれど嫌じゃない。そんな自分に苛立ちが募る。
ぐい、と強く彼の体を押し返したが、彼の肩はびくともしなかった。
「嫌じゃないんだろい？」
「……理由がない」
「理由なんて、したいってそれだけで十分だ」
「……したいのか？」
「嗚呼、これ以上のことも」
「……いいぜ」
押し殺すようにそう答えると、ふっと彼の腕から力が抜けて、すうと少し離れた。そして間近で見詰め合う。
彼は黙ったまま、じっと此方を見ていた。
「……エース」
赤い光を浴びた色素の薄い彼の目が、ガラスのように綺麗に見えた。
彼が何事かを囁いた、その唇に視線が吸い寄せられる。
キスをしたい、と思った。彼と。
「いいぜ、しよう」
真っ直ぐ彼を見詰めて、そう告げた。