黑猫寫眞館

黑猫寫眞館〔3〕

「はい、黒猫写真館です！」
電話を取り、弾む声を抑えてなるべく平静を装ってそう答えたが返事はなかった。
サボではなさそうな気配に少しがっかりした。間違い電話だろうか。それとも。
「……もしもし？」
今度は数段下がったトーンで再度問うと、クッと相手が笑った気配がした。
「誰だ？」
「……エース、誰だと思った？」
「……え？」
電話の向こうからは低い男の声がした。どきりとする。
「さっき会ったばっかりだろい」
「おまえ……！」
「明日空いてるか？」
「……明日？」
「明日の午後、指定した場所に来い」
「ちょっと待てよ！なんで俺が、そもそもおまえ」
「聞きたい事はその時聞いてやる、じゃあな」
男は遮るようにそう告げると、待ち合わせ場所を告げ、ガチャリと一方的に電話は切れた。

待ち合わせに指定された場所は、街の外れにある古い廃工場であった。

昨日と同じく、念入りに外套まで着込んだ井出たちで赴いた。古めいた立入禁止の看板を横目に広い敷地内に入る。
コンクリートが敷き詰められた中庭らしき場所は所々に雑草が顔を出している以外はがらんとただ広く、冷たい。
そこを横切り、入口らしき場所に向かう。
短い庇の下、鼠色をした入口の扉は薄く曇ったガラスの嵌められた引き戸で、それに手を掛けるぐいと力を入れたが、予想外にもするりと滑らかに開いて内心驚いた。
そのままドアを潜り室内に入ると、端の方では機械の類が朽ち、床に僅かに残っている他は何もなく、広くガランとした工場内の向こう側の壁に男が凭れて立っているのが目に入った。
「……おまえ！」
つかつかと近寄ったが、男はすいと踵を返すと行ってしまう。その背を追いかけて、腕を掴んで見たが、振り向いた男にふっと笑われるとなぜか言葉に詰まってしまった。そのまま後ろを歩く。
男は昨日とは打って変わって、きちんとした服を着込んでいた。綺麗なラインの白いシャツにクラシカルなブリティッシュ・タイをきちんと締め、パンツはチャコールグレーでかっちりとした形をしている。足元のブーツも黒い皮に揃った縫い目が美しく、服には疎いエースでもそれらが一目で高級なものだと知れた。
上着こそ着てはいないが、おそらくそれらは正装なのであろう。
「どこに行くんだよ」
「……ついて来れば解るよい」
男は慣れているのか、薄暗い工場の中をするすると迷いのない足取りで歩いてゆく。
細い廊下を通り、また別の工場の中を通り抜ける。
昔は白かったのだろう壁にそっと触れるとざらりとしていた。模様を描いているような汚れをなんとなく目で追う。暫く歩くと壁は途切れ、ずらりと窓が並ぶ横を、無言のまま彼について静かに歩いてゆく。
汚れたタイルの上を、自分と彼の影が静かに落ちていた。
顔を上げると、薄暗い廃工場の曇ったガラス越しに凛と澄んだ青空が見えた。まるで別世界のように表は明るく光に満ちていた。
思わず立ち止まって見上げた自分に、彼が声を掛ける。
「こっちだよい、エース」
「……」
どうして、自分はこの男の言いなりになっているのだろうか。
別に何かルールがあるわけではない。
ふと疑問が湧いた。彼は、目の前の男は何と言う名なのだろう、と。
そうすると聞いてみたい衝動に駆られる。
「なあ」
「ん？」
「おまえさ……」
「おまえじゃねえ、マルコだよい」
「え？」
「で、なんだ？」
「いや……」
「そうかよい。こっちだ」
「ん」
男が早足で角を曲がるのを、慌てて着いてゆく。
何故不意に名前を教えてくれたのだろう。考えていることが解ったのだろうか。
そう考えると少し頬が熱い気がした。
しかし、それじゃだめだとはっと思い直すと、ぶんぶんと頭を振った。そして歩きながらもその背にはっきりとした口調で問うた。
「……どうして、俺を呼びだした？」
しかし彼は無言のまま歩き続ける。気は長い方じゃない。少しむっとすると、強い調子で再度問うた。
「おまえ、えっとマルコ！会った時聞いてやるって言っただろ！」
すると彼はぴたりと歩みを止めた。その背にどしんとぶつかってしまうと、振り向いてクッと笑われた。むっと睨みつける。「…………聞いてやるとは言ったが、答えてやるとは言わなかったが？」
しかし、そのあんまりな内容に反して、彼は柔らかくふっと笑った。嫌味な感じではなく、少しその笑顔が可愛く見えてどきりとした。
「……！」
「……なんだよい」
無自覚、だったのだろうか。驚いた自分に彼が不思議そうな顔をする。
「……別に」
「……？」
彼はちらりと自分を一瞥すると、また前を向いてすたすたと歩き出す。その背を慌てて追いながら、これじゃ駄目だと思い直す。
「マルコ！」
「なんだよい」
振り返らないまま彼が答える。
「昨日、あの家で何をしていた？」
「仕事だ」
すんなりと簡潔に答えが返った。答えられることは答えてくれるつもりなのだろうか。
「誰かを……傷つけたりしたか？」
続けてそう問うと、彼がちらりとこちらを見た。誰の事を思っているのか知れた気がしてどきりとする。
「……必要なものを頂いただけだ、誰も殺しはしていないよい」
「……男の子に、会わなかったか」
「……知りたいのかよい？」
「うん」
即答すると、彼がぴたりと歩みを止めた。その急な動きに思わずどすんとその背にぶつかった。
「じゃあ、何を差し出す」
振り向いた目に常にはないものを感じて思わず身構える。低く彼に告げる。
「おまえにやれるものなんてねえ」
「……じゃあ奪うまでだ」
すらりと伸びてきた手をばしりと振り払う。しかし彼は少しも怯まずすうと滑らかに動いて簡単に抱き止められる。彼の肩口に顔を押しつけて、まるで抱きしめられているようだ。
「……やめろ！」
顔にかあっと血が集まるのが解る。それは怒りなのか、羞恥なのか。
思わず泣きそうな心持ちでぐい、と手をつっぱねると、その拘束はするりと呆気なく解けて驚いた。あんなにびくともしなかったのに。そして間近で見つめ合った。
「……からかってんのか？」
「いや」
「……じゃあ、なんで」
「お前が本気で嫌な事はしねえよい」
さらりと告げられた内容に驚いて彼を見返す。しかし男は本気のようだった。
「……！」
自分に向って伸ばされた手をばしりと強く叩いてはね付けた。そのまま彼を強くねめつける。彼がじっと此方を見ていた。
「……何がそんなに怖い」
彼が静かに告げた、その言葉にはどきりとした。
「……」
無言でまた手が伸ばされる。動けなかった。そっと柔らかく頬に触れる。それがやはり嫌じゃなくて、混乱する。
この男といるのは嫌だ、と思った。自分の何かが狂ってしまう気がしたから。
「……何も、怖くなんてねえ！」
そう叫ぶと、踵を返して走り出した。