黑猫寫眞館

黑猫寫眞館〔1〕

かの家を訪れたのは、初夏のそれは暑い日の早朝であった。

じわじわと額に汗が浮く。それでも弱みは見せたくないと気勢を張ってエースは服を着込んでいた。
白いシャツに臙脂の棒帯。格子柄のハーフパンツにハイソックス。きちんとケープ型の外套も身に付けていた。
見る方も暑かろうと眉を寄せる様相であるが、それでもエースはきりりと表情を引き締めてその大きな家の呼び鈴に指を乗せた。

―――リリリン

遠く、屋敷の奥でベルの鳴る音が微かに聴こえる。暫し微動だにせず返答を待つが、四角いスピーカーからは何の返答も無かった。
もう一度ゆっくりと釦を押し下げる。だけれども、いくら待とうとも返答は得られない。
エースは少し溜息を付くと、その広い屋敷の周りをぐるりと歩いてみることにした。
長くどこまでも続く塀はどっしりとした煉瓦造りで、塀は高く中は伺えないが、入口の頑丈な柵の隙間から見える屋敷も洋風の作りであった事を思い出す。
静かに歩きながら、考える。一周回って、何事も無ければ出直した方がいいのかもしれない。否、諦めた方がよいのだろうか、と。
彼に会えるかもしれないという淡い期待が霧散してゆく。それを少しせつなく思った。
「…？」
微かだが、不意に何か物音が聞こえた気がして立ち止まる。きょろりとあたりを見回したが、辺りには人一人居らず何の気配もない。
それならば、と思い当たったのは邸内からの音だ。
高い塀の上へ視線を向けると、不意にその塀に白い指がかかったのが見えた。
驚く間もなくその手を支えにひらりと男が塀を越えてこちら側に姿を見せた。
塀の高さはゆうに3メートルはある。唖然と彼を見遣ったが、彼は何事もないように身軽い所作でひらりと塀を上を乗り越えると、とすんと然程音も立てずに自分の目の前に降り立った。そして真っすぐ此方を見た。すらりとした細見の体にシャツを無造作に羽織っている。ちらりと見える胸元には刺青らしきものが見える。ぴたりとしたパンツに腰にベルト、足元はサンダルというラフな出で立ちだ。個性的な髪型は綺麗な金髪で、表情の伺えないアイスブルーの目と、ばちりと視線が絡まった。
「…先客がいたねい」
「…だ、れだお前」
歌うように軽く告げられた言葉に、それを返すのが精いっぱいであった。
「探偵か？」
尚も問うてくる内容は当たっていてどきりとする。
「…どうして」
しかしそう問い返すと男はさもおかしそうにくくっと笑った。皮肉めいた笑顔が似合う、年上の男性。
何者なのだろう。いくつくらいだろうか。じっと見詰めると、彼はふっと可笑しそうに眉を上げた。
「そんな探偵探偵した出で立ちでよく言うよい」
笑いを含んだ口調でそう返される。
「…これは」
「格好から入るクチかよい？」
その言葉にカッと恥ずかしくなる。停止していた思考が急に動き出す。
「そんなんじゃねえ。大体お前なんだよ、俺はここの家の主に呼ばれて来た。おまえ、塀を乗り越えて来たってことは…」
「うるさいねい」
遮るようにそう告げられた。すうと滑らかな所作で一気に距離を詰められる。覗きこむように、目の前に男の顔がある。
しかし一切触れては来ない。動きを制することは何ひとつされては居ないのに、強い視線に絡めとられるように動けなくなった。
アイスブルーの目がじっと強く見詰めると、息が苦しいような気さえした。
「…ふうん」
「…な、なんだよ」
「おまえ、可愛い顔してんじゃないか」
「なっ」
「生意気そうで、そこがまたそそるねい」
その言葉にはただ動揺した。真意が掴めない。だけれど酷く恥ずかしかった。
しかし、続けて低く問われ、どきりとした。
「…この時間に此処に、と屋敷の主に呼ばれたのか？」
「…」
少し迷ったが、小さく頷くと男は満足そうに薄く笑った。
「てことは、おまえはここの家の者の知り合いだ、それも相当仲が良い…さては、息子のサボだな？」
「おまえ…」
言い当てられた事を問いただしたかった。しかし認めてもいいものなのだろうかと思うと迷う。
だけれど彼は、少しも自分の答えを必要とはしていないようだった。
「じゃあ、いずれまた逢えるさ」
さらりと告げられたその意味が掴めず少し首を傾げると、男はさも可笑しそうにくくっと笑った。そしてゆっくりとした動きで手を述べる。
すう、と初めて男の手が頬に触れた。少しひんやりとしたその柔らかい感触に驚く間も無く、すうと唇が重なって離れた。
「…！」
酷く驚いた。しかし、もっと驚いた事に瞬きした隙に、男は煙のように消えてしまったのだった。