あおいとり ことり〔8〕




知り合いに電話を掛けて頼みごとがあると告げると、相手は面白そうに話に乗って来た。
俺が人に、ましてや奴に頼みごとなんて確かに珍しい。ましてや借りが作れるとなれば、奴としては悪くない話なのだろう。
奴は腐れ縁、というやつで、オヤジの所で知り合った。所謂裏家業の男だが、オヤジには必要な事であったし、特に仕事についてどうという事は無かった。
簡単に事情を説明すると、奴は一日くれと言った。話はそれだけで済んだ。



次に保健室に赴いたとき、彼は窓際の桟に座り、外を眺めていた。
「あ、先生」
自分の姿を見ると、振り向いて笑った。年相応の明るい笑顔だった。
「……何見てたんだ?」
「ん、鳥がいるんだ」
彼が指差した先には、シルエットになった街並みの向こう、燃えるような美しい夕暮れが広がっていて、どきりとした。
こんな風に夕暮れを、久しく見ていない気がしたからだ。
「ほら、あそこ」
彼の言葉にそちらに視線をやると、遠くの木々が生い茂っている上辺りに、ぽつりぽつりとシルエットになって、鳥の影が見えた。
あの辺りは方向からおそらく広い川がある辺りだろうか。
「あれは……雁かねい」
「……かり?」
「鳥の名前だよい」
「……ふーん?」
なんだか納得行かない様子の彼に、思わず少し笑うと、その頭をぽんぽんと撫でた。
「……見に行って見るかよい?」
「……え?」
彼はたっぷり間を取った後、きょとんと丸い目でこちらを見た。本当に解らないという様子に、今度はふっと声を立てて笑ってしまった。
「……送って行ってやるついでだよい。家どこだ?」
「いや、でも……」
「自転車か?一人暮らしだろう?」
次々と問う内容に必死で彼が答える。
「えーと、今日は歩きだけど、うち遠いぜ。一人暮らしだけどなんで知ってんの?」
「……教師はなんでも知ってんのさ」
「へえ」
彼は本当に感心したように言ってくるりとした目でこちらを見た。
少し罪悪感が湧いたが、それよりも彼と居たいと思ってしまう自分はおそらく悪い教師なのだろう。



彼の家の場所を聞くと、車を走らせる。
学校の駐車場で生徒を乗せるのはあまり良いこととは言えないが、こんな時には自分の主任という肩書は役に立ち、なんとでも言い訳は出来る。
彼は助手席でそわそわと空を見たり、表を眺めたりしていたが、川の近くに車を止めると、きょとんとこちらを見た。
「……?」
そのまま家に送ってくれるだけと思っていたのだろうか。
「……鳥、見るんだろい?」
そう告げるとシートベルトを外し、表に出る。彼も慌ててそれに倣ったようだった。

夕暮れも深くなった河原を河川敷に降りてゆくと、彼が後ろを付いてくる。
急な土手を下ると、道が緩やかに広くなって。少し先に幅の広い川がゆるりと流れているのが目に入る。
その先の空の、綺麗なオレンジ色を水面がぴかぴかと反射している。人の姿は見えず、辺りはシンとしていた。
歩く足音だけが響く。不意にたた、と早くなった足音に、彼が隣に並んだ。そしてきゅ、と袖をつかまれる。
急に暗くなっていく辺りに、周りがよく見えないようだった。目が合うと、にこりと笑われた。
こんな風に、学校の外で彼と並んで歩くのは初めてだ、と思った。
「先生、夕暮れ!綺麗!」
先ほどよりもずっと暗くなった空は、空の低い位置で最後の残光が鮮やかに雲を照らし、眩しいオレンジの綺麗な色を見せていた。
空を指差してにかっと笑う彼の黒い瞳に、綺麗なオレンジ色が映っている。
その言葉に少し笑ってやると、彼は少し驚いた顔をした後、またにかっと笑った。
そのまま川の縁まで行くと、もうすっかり深い色に変わった川に、ぽつぽつと浮かぶ鳥が見えた。尾羽の白がぼんやりと明るく見える。
「鳥だ!さっきの鳥かな?」
彼が一生懸命見ようと身を乗り出す。
「あんま乗り出すとあぶねえよい」
「鴨?アヒル?」
「あんな鴨がいるか」
しれっと答えると、彼がむーっと頬を膨らます。
「しらねーもん!」
その表情に思わず笑って、その髪を撫でると、彼がじっとこちらを見ていた。
「……なんだよい」
「初めて、見た」
「ん?」
「さっきも、だけど。そんな風に、笑ってんの」
なるほど、先ほどじっと見ていた訳はそれかと思う。だけれどそうかな、と不思議に思った。普段から普通に笑顔なんて作れていると思うが。
「……そうかよい?」
「うん、なんだろ、いつもと違う」
「……」
人の気持ちに敏い所がある子だ。本当に笑っているかどうか解るのかもしれない、と思うとどきりとした。

彼が川原に高く積まれた大きな石にぴょんと飛び乗る。
身軽で運動神経がよいのだろう。そのまま隣の石にひょいひょいと飛びうつり、てっぺんまで登ると振り向いて見下ろし、にかっと笑った。
「先生、遠くまで見えるぜ?登ってこねえの?」
「俺はいいよい」
すると、彼が屈託のない様子で見える景色を語ってくれた。
遠くの公園や、登るとますます空が広く綺麗なことや、対岸の家の明かりなど、この姿を見ていると、重く辛いものを抱えた少年だと言うことを忘れてしまうようだと思った。
だけれど、それは今も彼の体の中で渦巻いているのだろう。それを含めて彼だ。自分にできることはなんだろうか。
彼がふと黙った。
何か思い出したのだろうか。それとも友の事を考えているのだろうか。
少し考えて、彼に声を掛けた。
「ポートガス」
「……ん?」
「……ローのことだが」
そう告げると、彼がはっとしたのが解った。そのままぴょんと石から降りると、さっと近寄ってくる。
「何?」
目の前に立つ彼に、先ほど連絡があった事柄を静かに告げた。
「明日あたり、何か解るかもしれねえ」
「……っ!それは、なんだ?何が解るんだ?」
ぐっと詰め寄って来た彼の肩を押し戻して制する。彼は目を大きく開いて、じっと見上げて来た。
「……まだ解らねえ。でも、些細なことでも解ったことがあればおまえに連絡する」
「……」
彼が無言のまますうと俯いた。期待をさせてしまっただろうか、と思うと少し悪い事をした気持ちになった。
「……約束する」
「ん」
短くそう答えると、彼がすうと顔を上げた。
薄い宵闇の中、彼が近づいてくる。そのまま首筋にするりと手を回して、軽く口付けられた。
嫌がらずに、そっと受け入れる。その触れるだけの唇が、震えているのが微かに伝わった。
それは軽く触れただけですぐに離れて行った。
「……俺さ」
彼がぽつりと呟いた。
「解ってもらえるなんて、思ったことは一度もなかった」
そう告げた彼の目が真っすぐこちらを見ていた。
「だけど、先生は全部、ちゃんと解ろうとしてくれた。そんなことは初めてで。俺」
そこまで告げると、彼が手を述べて頬に触れた。その手も少し震えていた。その手に、手を重ねる。
「エース」
「……なに?」
「全部終わったら、お前の全部を寄こせよい」
「……それは、どういう……?」
見上げてくる彼に、無言でふっと笑うと、彼の眉間にきゅっと皺が寄った。
「……俺が、好きってことか?」
「……さあねえ」
「ずりい」
そう告げてむうっと頬を膨らませる彼に思わず笑ってしまう。
「大人はずるいんだよい」
「先生……」
「ん?」
「どうすれば……もっと先生に近づける?」
「……おまえが望めば、いくらでも」