あおいとり ことり〔7〕
会議が長引き、いつもの時間よりも大分遅れてしまった。
廊下を早足で歩く。もしかすると、彼はもう帰ってしまっているかもしれない。そう思うと自然と足が早くなる。
彼との時間を心待ちにしている自分がいつのまにかいる事には、もう気付いていた。
静かに扉を開くと、微かに感じる気配に少しほっとした。そのまま後ろ手に鍵を掛ける。
そっとそちらに近づくと、彼はベッドの上で眠っていた。
「……」
上着と鞄は椅子の上に置かれ、シャツとズボンのままでベッドの上に仰向けに横になり、その目は閉じられていた。
いつもより幼く見える寝顔に少し笑みが漏れた。少しは警戒心を緩めてくれたのだろうか。
少し考えて、静かにベッドの端に腰を掛ける。
すうすうと規則的に胸が隆起する。おそらく深く眠っているのだろう。
起こさないようにそっと髪を撫でたが、しかし彼はん、と声を漏らし、微かに身じろいだ。
どきりとして見つめると、うっすらとその目を開く。
しかし眩しかったのか、数度瞬きをして、そしてゆっくりと目を開いた。
まだぼんやりしているのか、とろんとした目をこちらに向ける。
「……よう」
「……ん」
小さく挨拶をすると、彼がごしごしと目をこすった。
「……せんせえ」
そして小さくそう呼んだ。
「……」
その幼いさまに少し笑って髪を撫でてやると、にこっと可愛らしく笑った。
「……会議?」
「ああ、遅くなって悪かったな」
「いや……」
彼はまだ少しぼんやりとしたまま、何かを考えているようだった。
「……今日は話すこと、ない」
「……そうかよい」
時間もあと少しだ、と手元の腕時計に目をやると、彼がぽつりと呟いた。
「……キスでもする?」
その真意が解らず、思わず彼を見返す。彼はきょとんとしたような幼い表情のまま、こちらを見ていた。
思わずため息を吐きたくなる。
そもそも、彼とこのような取引を行うようになった理由は、彼が行っていた行為が原因だが。
しかし、彼は本当にそのようなことをしていたのかと思うと、それはちょっと違うのだろう。ならば、なぜ、と思う。
この関係の均衡が崩れるのが怖くて、問うことを躊躇っていた。だけど。ふっと息を吐くと、彼を真っすぐ見据える。
「……おまえが、こんなことをしている理由ってなんだ?」
そうゆっくりと問うと、彼は急にはっとしたような顔をした。
そして、ゆっくりと起き上がると、いつも通りの、少し警戒心の覗いた表情に戻っていた。
「……先生には関係ねえだろ」
その声は、拒否するような内容に反して少し震えていた。
「もう、ここまで関わっといて、関係なくねえな」
そう告げると、彼は少し切なそうな顔をして、すうと俯いた。
「……」
俯く彼の頭をじっと眺める。彼はいつもこんな風にひとり俯いて、何もかも乗り越えて来たのだろうか。
そう思うと胸がつきりと痛んだ。
「……なあ、ポートガス」
できるだけのやさしい声でそう問い掛ける。古い友人がこんな自分の姿を見たらおそらく笑うだろうと思った。
だけど。
「……うん」
彼がぽつりと小さく答える。
「俺は、お前の力になりたいと思う程には、おまえに絆されてるよ」
「……」
彼は俯いて暫く考えているようだった。
「先生……」
「ん?」
「……ごめんなさい」
「……」
その顔を覗き込むと、彼がぱっと顔を上げた。泣いているかと思ったが、彼はまっすぐこちらを見た。
「先生、ありがとう。もうお金はいらない。いままでのも、返す」
はっきりと告げたそれはおそらく彼の本心なのだろう。そしてこのような事はもう止めようと思っているのだろうと思えた。
それが前向きな答えなのだとしたら、教師としては何ら止める理由はない。だけど。
「……金は必要だろうさ。いますぐいらねえんなら、貯めとけ。無駄にはならねえだろ」
少し考えて金銭面の部分だけ答えたが、彼がそれは予想外の答えだったようで、首を傾げてしまった。
「……よく解んない。ちょっと考えてもいい?」
それは素直な彼らしい答えだと思った。
「ああ、好きなだけ考えな」
そう答えると、彼はうんと素直に頷く。思わずふっと笑うと、彼は不意にきゅっと表情を引き締めた。
「……?」
その表情を不思議に思ったが、彼はそのまますう、と俯いてしまった。
何かを考えているような様子に、黙って言葉を待つ。
しばらくすると、彼が決意をしたかのように、ぎゅっと手を握り締めたのが目に入った。そしてぽつりと彼が呟いた。
「ある日、黒猫があるいていると、一匹のヒョウに出会いました」
俯いたまま、続ける彼の細い声に耳を傾ける。
「ヒョウは黒猫を見ても逃げませんでした。」
「黒猫は言いました。
『どうして逃げないの?』」
「ヒョウは答えました。
『べつに逃げる理由なんてないから』」
「『俺のこと嫌いじゃないの?』
『好きでも嫌いでもない』」
「黒猫は、嫌いじゃないと言われたのが初めてで、
すごく嬉しくなりました」
彼はそこまで話すと、ぴたりと止めた。
「それは……誰の事だ?」
そう問うと、彼は少し俯いて考えているようであった。
だけれど漸くすうと顔を上げると、まっすぐこちらを見た。
「俺は……ローを探してる」
不意に出た、その名前にどきりとした。
「……二年のトラファルガー・ローか?」
彼がこくりと頷く。
それは穏やかな話ではない。少し考えるとゆっくりと起き上がった。
ベッドの端に腰かけなおし、彼の顔を覗き込む。
「……何か知ってんのか?」
そう問うと、彼は俯いたまま、ふるふると頭を振った。
二年のトラファルガー・ローは、現在失踪中である。
一人暮らしをしながら通学をしている生徒であったが、二週間程前の今月の頭から登校しなくなり、調べた所自宅は鍵が開け放され、荒らされた状態でベッドの上には血痕が見つかった。捜索願が出され、捜査が行われると、その血痕は本人のものと確認された。しかし庸としてその消息は知れない。
「ロー、は。消えた」
彼が不意にぽつりと呟いた。
「ベッドの上には血痕があったって聞いてる。理由なんてわかんない。だけど、嫌な予感しかしないじゃないか。八方手を尽くして探したけど、俺は疎まれてる身だ。親身になってくれるヤツなんていない。ジジィは頼れない。何もかも俺の力で調べようと決めた。ローが校内でしてた事は知ってた。その手順も。だから……」
「……こんな無茶したってか」
彼がばっと顔をあげる。
「だって、これ以外、本当のことに近づく方法が……解らなかった」
「色々あるだろい」
「……」
俯いた彼の肩が小刻みに震えているのが目に入る。
「泣くな」
「泣いてねえ!」
彼はそう告げたけれど、上げた顔には大粒の涙が頬を伝っていた。
「こうしてたら、なんかあいつ帰ってきて怒ってくれる気がして……」
その肩をゆっくりと抱く。
「ほんといつも、俺のこと叱ってくれた……」
そして、その唇に触れた。
「……」
触れた時のようにゆっくりと体を離すと、彼が目をまんまるにしていた。
「……キス、はじめてだ」
驚きからすっかり泣きやんだ彼の頭にくしゃりと触れる。キスをしたのは、その為じゃないけれど。
「友達、探してやる」
そう告げると、彼は少し頷いて、そして漸く少しほっとした顔をして笑った。