あおいとり ことり〔6〕




彼は逃げ出してしまうのではないかと危惧していたが、
次に出向いた時も、彼はベッドでノートを広げていた。
「…………ポートガス」
「うん?」
彼は目が合うとにこっと笑った。
「先生、これも教えてくれ!」
彼の屈託の無い様に一瞬呆れたけれども、仕方ないな、と思うとふっと笑った。

やる気になった事自体には悪い気はしない。
丁寧に教えてやると、彼が素直に頷いて問題を解いて行く。
その飲みこみの早さと理解力に少し感心した。
彼はおそらく、勉強が出来ないのではなく、勉強の仕方を教わらなかったのだろう。
学校の勉強というものは、想像力や個性などは必要としない。
ただ効率的な方法と、実際の作業量が一番問題になるものだ。

ぽつぽつ質問に答えていると、彼がノートに視線を落としたままぽつりと呟いた。
「……なあ、先生」
「……ん?」
「先生って、なんで先生になったんだ?」
「……まあ、大した理由じゃねえよい」
「……」
さらりと答えると、彼はノートに書き記していた手をぴたりと止めた。
その沈黙に何事かと彼を見たが、彼は俯いたまま何かを考えているようだった。
「……ごめん、ほんとうは知ってる」
「……?」
不思議に思って彼を見つめたが、彼はじっと動かず、そして暫くの間の後ぽつりと呟いた。
「……白ヒゲ、だろ?」
「……」
その単語が出るとは思わず、内心どきりとした。
「……先生、俺、聞いたんだ」
彼はそう答えると、ゆっくりと起き上がり、きちんと座った。
「……白ヒゲ、ずっと前から知ってる」
「……」
重くつらそうな口調に、表情に、常にはないものを感じた。彼の告げる言葉に黙って耳を傾ける。
ふと、彼が消え入りそうな声で小さく告げた。
「……俺は、あの白ヒゲとやりあった男の……息子だ」
「……!」
内心、酷く驚いた。
尊敬しているオヤジは、不調による休業に至るまで、ライバルと言われる男とひたすら渡り合っていた。
その男がいるおかげでオヤジは不遇を強いられた事もあり、彼さえいなければ、と思った事も何度もあった。
相手は悪い噂だらけの男だった。そのいさかいが原因でオヤジは体調を崩したと世の中ではささやかれていたし、それを信じている仲間も多かったように思う。
しかし自分がオヤジの片腕となって補佐が出来るくらいの歳に漸くなった頃、その男はこの世から去ってしまった。
結局自分が相対する事は一度もなかった。
だが世間は男を許さず、残された近しい者も全て報復を受けたと聞いた時は、後味の悪い嫌な気持ちがしたものだ。
だけれど、全ては遠い昔だ。

まさか、あの男の息子が今になって目の前に、現れるとは。
だが、その動揺は顔には微塵も出さないように注意を払う。ゆっくりと目を閉じて、開いた。
こちらを真っ直ぐ見ている彼とばちりと目が合う。彼が静かに口を開いた。
「それでも先生は……俺も平等に可愛い生徒だなんて言える?……好きになってもいいと……言える?」
彼の目をまっすぐ見返した。全てを諦めた目をしている、と思った。
彼の息子ならば、どのような世間の目を向けられ、生きてきたのか想像に難くない。
このような幼い体で。それでも彼は全てを受け止めるしかなかったのだろう。
そうか、だから、彼は。

「…………オヤジは、白ヒゲはお前の父を知ってると言ってたよい。立派な男だったと言っていた」
ゆっくり告げると、彼の目がはっと見開かれた。
「そんなことはねえ、嘘だ!」
「嘘じゃねえさ。オヤジは幾度となく昔話でその男の話をしていたよい。酷く懐かしそうだった」
その言葉に彼がきゅっと唇を噛んだ。信じられない、と言ったところだろうか。
「当事者同士にしかわからねえこともある。俺も、噂は知っているが、その通りの男だとは思ってねえ」
「……でも、じゃあ、どうして」
彼が俯いたまま、ぶんぶんと頭を振った。
その頭にそっと手を載せると、彼がびくりとした。少し、震えているのが伝わる。
そのままゆっくり髪を撫でると、彼がすうと顔を上げた。
「……ポートガス」
「……」
彼は不安そうな目で、まっすぐこちらを見ていた。
「世の中の評判が、必ずしも真実だとは限らねえ。信じるも信じないも自分次第だってこともな」
「……」
彼に、どう告げれば、少しでも伝わるんだろうかと考えた。
「……生徒と二人きりで、鍵をかけた保健室で、金をはらって、ただ勉強教えてたっていったら……誰が信じる?」
彼がはっとした顔をした。
「……でも、それは……」
「ああ、事実だ。でも、全員に言い訳をして回ることなんて出来やしねえだろい」
「……」
「だったら、最後はわかって欲しい奴だけが解ってくれればいい。違うか?」
そう問うと、彼の目が揺れた。今にも泣きそうな顔に、出来るだけ優しく告げる。
「……俺はこう思っている」
彼の目がまっすぐ透き通って見える。
「お前の父がどうだろうと、真実がどうだろうと……おまえはおまえだ」
「……」
「おまえを信じてる」
彼が、小さく頷いた。