あおいとり ことり〔5〕




次に保健室に出向いた時、彼はベッドの上で教科書とノートを広げていた。

「あ、先生、ここ解んねえんだけどー」
「……英語かよい」
「先生なら解んだろ?」
「まあな」
無邪気に笑い掛けられて、思わず内心息を吐きたい気持ちになる。前回の会話から、こちらは色々考えていたというのに。
彼はあれをただのその場限りの言葉だと思ったのだろうか。それとも。
それでも、問われた事柄には丁寧に答えてやる。内容は然程難しくなかった。
しかし、要点を簡潔に説明すると、困った顔をされた。彼は成績は悪くない、と思っていたが、それはどうやら古文だけだったようで、英語の理解度は少し呆るものだった。
「……おまえ、奨学生だろい。もっと勉強しねえと、奨学金取り消されるぞ」
「……俺、頭悪いし」
悔しそうに呟いた彼に息を吐く。
「頭が悪いってのをいいわけにすんな」
呆れたように告げると彼がぱっと顔を上げた。
「だって、本当なんだからしゃあねえだろ!」
座りなおすと、彼と真っすぐ対峙した。そうして、ゆっくりと告げる。
「自分は頭が悪いからなんて言って投げだすのはそりゃあ簡単だろうさ。なんの努力もしなくてすむ、いい言い訳にしか聞こえねえよい」
「…………」
彼の目が大きく見開かれた。
「生まれつきの頭の良し悪しはそりゃああるだろうさ。だけど、どんなにいいものを持っていたって、それを磨かなければ何も成し遂げることなんてできねえ。凡人だと思うなら尚更努力しろい。それは天賦の才だって越えることの出来る、平等で、立派な武器だ」
「……そんなの、わかんねえ」
「なんだって自分の頭の中に答えがあるなんて思うな。たくさんの経験をして、積み重ねることでしかわからねえこともあるんだよい」
彼が困った顔をした。おそらく心当たりもあるのだろう。彼は決して馬鹿ではない。苦手意識からだろう、足りないのはこの教科に対する努力だ、と思った。
「自分を卑下してねえで、とりあえずやってみろい。それでも駄目ならその時は一緒に考えてやる」
「ん……」
一緒、と小さく繰り返すと、彼が素直にこくりと頷いた。
その髪を撫でると、彼が頭を振る。でもそれは嫌そうではなく、照れているような仕草だった。
それに軽く笑うと、ぽんぽんと軽く撫でて手を離した。

手元の教材を片づけ、ペンケースにペンをしまうと、ふと紙が目に入った。そういえば、と思う。
「大体お前は頭が悪いって言うけれども……」
ふと呟くと、彼が不思議そうにこちらを見た。
それを取り出して眺める。それは初日彼が落としていったメモだった。なんだか懐かしく思う。
「……これは、よく考えられているじゃねえか」
「……え?」
彼がきょとんとした顔をした。思わず見返すと、彼はよく解らないという顔をしている。

――この、保健室での取引方法は酷く簡単だった。
時間と金額を記した紙を折りたたみ、保健室のドアの青い小鳥のクリップに挟んで置く――それだけだ。
その紙を本人が見て、契約が成立なら、ベッドで待っているという寸法なのだろう。簡単、だがよく考えられている。
メールや電話と違って足もつき難い。
部屋に入らなくても取引の有無を確認出来るし、例え誰かに見られても言い逃れもし易いだろう。

「紙にやりとりを書くってやり方は……」
彼は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「――おまえが考えたんじゃないのかよい」
「……!」
そう告げると、彼の体が一瞬びくりと震えた。その目が大きく見開かれる。
それだけで、真実が少し知れた。