あおいとり ことり〔2〕
それは保健室を調査するようになって三日目のことだった。
一番奥のベッドに不自然にならぬように半分カーテンをかけ、その陰で本を読んで待っていた。
服装は白のシャツにネクタイ、細いボーダーのチャコールグレーのパンツと、いつも通りシンプルで動きやすい格好だ。
時間は放課後十七時すぎ。十五時の見回りが終わった後、警備員によって施錠される十七時までここは無人となる。
放課後の時間帯だ。運動部の生徒の利用もないことはないだろうが、簡単な治療器具なら各部活で用意していて対応出来ていることも確認していた。噂でのみだが、その取引方法もぼんやりと伝え聞くことができた。その生徒はそれは真実だとは夢にも思っていないようだったが。
ぱたんと本を閉じてぽんとベッドの上に投げだす。見当外れだっただろうか、と考えてから、そうならば楽なのにと思う。いっそこの噂自体が間違いであったのなら――。
そこまで考えた所で、かちゃりと微かな音と共にするりとドアが開く気配がした。
すうと気配を殺した人物が室内に入って来る。その人物はまた静かにドアを閉めると、カチンとドアに鍵を掛けた。
人は、後ろめたいことをする時は意図的にか無意識にか音を消すものだ。
気配がこちらに移動してくる。それは自分のいるベッドの前にぴたりと止まった。
薄いクリーム色のカーテン越しに人影が見える。思ったより背が高い。カサリと小さく鳴ったのはおそらく、自分の書いた紙きれを確認しているのだろうか。それを手にしているということは。
「……誰かいる?」
予想外なことに、問うて来た声は男のものであった。それには流石に少し瞠目する。すうとカーテンに手がかかり、ちらりと顔を覗かせた。
「……え、先生?」
彼は一瞬虚を突かれた顔をした。しかしすぐに全てを察したのか、慌てて踵を返す。しかしこちらもそれは予想の範疇だった。逃げるその腕をしっかりと掴むと、素早く彼の体をベットにうつ伏せに引き倒す。腕を後ろでねじり上げ、もう片方の手で背中をベッドに押さえつけて拘束した。
「……は、なせっ!」
彼がわめいてじたばたと暴れる。だけれどそう簡単にがっちり押さえつけた拘束は解けない。
こんなときも、白ひげの教えが役にたっている。
教師はたとえどんな教科であっても、体を鍛えることを怠るな。生徒はおまえらよりもずっとずっと若い。時には体力や腕力と言ったものが必要だろう、と。決して暴力を振るうという意味ではない。だけれど、このような場面でしっかりと生徒を捕まえられる体力があってよかったとは思う。彼はまだ未完成ながらもしなやかな筋肉と長身の体を持った男子生徒だ。
「無駄だ、大人しくしろい」
冷たくそう告げると、彼は不意に抵抗を止めた。
「……先生、客なの?」
背を向けてベッドに抑えつけられたままの彼がはっきりとそう告げた。
「んなわけねえだろい」
「……ふーん」
即座に突き放すように答えたが、彼は解っているのかよくわからない曖昧な返事を返す。
認めた事に気付かないのだろうか。それとももう誤魔化しても無駄だと開き直っているのだろうか。
少し溜息を吐いて、そしてその手をゆっくりと離した。
彼は拘束がなくなると、もそりと起き上がり、ベッドの上に胡坐をかいて座りなおす。
黒い、少し癖のある髪がくしゃりと乱れている。少し伏せた目もとにそばかすが散っていて、それが彼を少し幼く見せていた。
ポートガス・D・エース。受け持ちのクラスの一つに在籍している、この高校の二年生だ。
白いシャツは苦しいのが苦手なのか上から数個ボタンが外してあり、黒いパンツと共に学校指定のものだ。上着はどこかに置いて来たのだろうか。カバンも持っていないようだった。
その表情はむっつりとして、だけれど特に脅えや反省の色は見られない。不機嫌そうに押さえられていた手首を撫で、ふてぶてしいとも思える態度だった。
押さえつけた時に彼の手から落ちたのだろう、紙切れが床に落ちていた。それを拾い上げる。
手に取ったそれを眺めていると、彼がぽつりと問うた。
「……それ、書いたの先生だろ?」
声にそちらを見ると、彼が顔を上げてこちらを見ていた。ばちりと目が合ったが、彼は少しも動じた様子はなかった。黒くて真っすぐな綺麗な目だ、と思った。
「……ああ」
「だろうね、言われてみたら黒板の板書の字と似てる。生徒にしちゃ綺麗だと思ったんだよな」
「……そりゃどうも」
紙きれには、簡単に『17時半 3』とだけ書いてある。
「ほんとに三万くれんの?」
彼がくくっと笑った。その顔を見て、暫し考える。
「おまえ、こんなことを商売にしてるのかい」
平坦にそう告げると、彼は一瞬きゅっと真剣な顔をした。
「……生憎と両親がいないんでね」
少しの沈黙の後、彼がゆっくりとそう告げた。
「……ふうん」
彼の家庭の事情については少し聞いたことがあった。随分と複雑そうで、だけれど彼の様子には少しもそのような所が見られなかったので驚いた記憶がある。
それでも、いつも少し眠そうな、成績はごく普通の生徒。そのような印象だった。
――今日までは、だが。
「バイトは一応認められてるけど、それじゃ金が足りねえんだよ」
彼が拗ねたように告げた。
「……俺が知ったことじゃねえよい」
さらりとそう応えると、彼が少し目を瞠った後、ははっと笑った。
「先生、なんか授業中とちげえ」
「本音と建前なんてあって当たり前だろい?」
「……ふうん」
「先生、邪魔するなら客になってよ」
彼が不意に妖艶に笑って告げた。
「……受けると思うのか?」
「……さあね」
「……」
彼の真意を測りかね、じっと押し黙る。
ばちりと視線が交わされると、彼が小さく呟いた。
「でも……」
「……」
彼がすうと俯く。その表情は見えなくなった。少し首をかしげたタイミングで彼がぽつりと告げた。
「……きっと受けてくれると思ってる」
「……なぜそう思う?」
「だって、先生はそういう人だから」
「理由になってねえな」
「……男なら……妊娠しねえんだ、いいだろ?」
良いわけなんてない。だけれど、何かが胸に引っ掛かってちりと音を立てた気がした。
「……」
彼が再びすうと顔を上げた。その目がまっすぐこちらを見ていて、そして何処か泣きそうな顔をしていた。
その表情にどきりとする。少し考え、ふっと息を吐くと、彼がびくりと震えた。
「……わかった。だけど、行為はしねえ。金でおまえの時間を買ってやる」
「……え?」
「せいぜい楽しい話でもして楽しませてくれよい?」
ぽかんとしている彼を置いてそのまま立ち上がる。
「今日は金を持って来てねえから次からな。月水金の十七時半か?」
問いかけると、彼がはっとした後、慌ててこくこくと頷いた。それを確認するとそのまま無言で退出する。
保健室を出て、後ろ手に扉を閉めると思わず溜息が洩れた。はーと隠しもせずに吐き出す。
受けたのは、彼の申し出が魅力的だったからなんてものではなく、彼の抱える影に気がついたからだった。
彼に興味が湧いた、というのが正しいのだろうか。
彼は明るくからりとして、頭も悪くない。だけれど何かが彼の成長を押し留めているように。そしてまた彼が自ら幸せから遠ざかろうとしているように見えた。