魔法使いと夜



なんとか道に迷うことなく、二日かけてその屋敷にたどり着いた時、時刻はもうすっかり夜になっていたが、灯りは一切ついてはいなかった。
眠っているのだろうか、とも思う。もしかして、という不安は打ち消して、ドアを開く。
それは、鍵はかかっておらずいとも簡単に開いた。
屋敷内に一歩踏み出して、違和感を覚えた。それは香りだった。屋敷の中には、ふわりと何か香のような香りが漂っている。
その香りの中、暗い廊下を真っ直ぐ進んで、居間に入ると、テーブルの上に小さなランプが置かれていた。ゆらゆらと頼りない光の中で、背の高い華奢な椅子に、頭から白い布を被った女性が座っているのが見えた。
布が顔にもかかっていて口元しか見えないが、色が白く唇は赤い。体を覆った布の感じからも、華奢な女性のように思えた。
女性は自分が入った事には少しも驚いていないようで、すうと顔を上げてこちらを見る。しかし何も言葉は発しない。そのまま少し近づいて、女性に問うた。
「……お前が、魔女?」
「……」
女性は答えなかった。尚も言葉を続ける。
「ここには魔女がいるって聞いたぜ? 違うのか?」
そう問うと、漸く女性が答えた。
「……そうです」
細く綺麗な、しかし不思議な女性の声だ、と思った。
「……クリアは?」
「クリアはもう、いません」
女性の発したクリア、と言う言葉に胸がチリ、とした。
「……なぜ?」
「……彼は、人ではないと知ってしまいましたね?」
頷くと、女性は少し黙った。しかしすぐにも言葉を続ける。
「彼は何のために生まれたのか知らず、何のために生きるのかも知りません。年老いる事もなく、これからも一人で、仲間も最早いません。人はそんな彼を奇異な目で見るでしょう。役人にも怪しまれ、年も取らない彼は、怪しまれれば転々とするしかないのです」
「……」
「一緒にいてはいけません。あなたは違う。あなたは家族も友達もいるでしょう? あたたかい場所があるでしょう?」
「それでも、俺は、クリアに会いたいと思ってる」
「……いけません。彼はずっと孤独でした。でも、いづれ失ってしまうのなら、もう何もいらないんです。あなたには感謝していると言っていました」
女性にすたすたと近づく。香の香りが強くなる。目の前に立つと、彼女は少し顔を上げ、じっとこちらを伺っていたが、立ち上がろうとも動こうともしなかった。
「俺は、怒っているよ」
静かにそう告げると、彼女は少し唇を動かしたけれど、何も言わなかった。薄暗い居間の中で、ちらりと見える彼女の口元の肌だけがただ白く見えた。
「何でも勝手に決めて。俺の気持ちまで、勝手に決めるなよ」
「……」
「俺は何も出来なくても、そばにいるよ。それでもあいつはそれを欲しがっていた筈だ。なあ――」
そこまで告げると、手を伸べて、その布をさっと取り去った。
布に煽られたのか、ふわりと強い香の香りがあたりに広がって、そして散って行くのを感じた。香炉はどうやら布の中で手に持っていたらしい。
「なあ、クリア」
「……よく解りましたね」
そこに座っているのは、もう華奢な女性ではなく、仮面をつけたクリアだった。
「……おまえこそ、どうやってたんだ?」
「……幻覚効果のある香と、暗示です。役人の目を眩ませるには好都合でした。これでも自信があったんですが」
「それもおじいさんか?」
「……いえ、これは本で知りました。煩くやってくる役人に気休めに試してみたのですが、あっさりとうまく行きました。それからは、ずっとこの方法を使いました。魔法使いだと噂になれば、尚好都合でした。誰もここには近づきませんから。だから、僕は静かにここで眠ることが出来るのです」
「……そっか」
そうして見詰め合うと、仮面をしている筈のクリアの表情が解るような気がした。そしてクリアが何を思ってこんなことをしたのかも。自分が何に怒っているのかも。
しばしの沈黙の後、クリアが自問をするように小声で告げた。
「あなたにさようならを告げたとき、あんなにも胸が痛かったのに。蒼葉さんは僕が間違っていたというのですか」
「そうだよ、クリア。おまえが間違ってる」
女性の発した言葉、あれはクリアが最後に告げた言葉の焼き直しだ。それは、クリアが自分を見つけてくれと言っているような気がしたのだ。そして、それもまた、本心から告げた言葉なのだとも。
「蒼葉さんは、酷い。僕をそっとはしておいてくれないんですね」
「ああ、俺は酷いよ。俺はそれでもおまえの傍にいたいと思ってる」
「……僕は、あなたとは違います」
「……おまえは、誰とも変わらないよ。俺と同じだよ」
「僕は……違う」
そう告げて黙ってしまった彼に、問う。
「……クリア、仮面外さないのか?」
「……これは、外すなと言われているので」
外さない理由はもうない。だから、その言葉は、きっとわざとなのだろうと知れた。そして少し考えて……ぱっと俯いた。子供っぽい嘘だけれど。彼ならばおそらく。
そのまま、うう、と少し苦しそうな声を出すと、彼が少し立ち上がってのを感じた。
「クリア……なんだか顔が痛くて……」
「えっ、大丈夫ですか?」
「顔がひりひりして、空気に触れるのが辛いんだ、だからその仮面ちょっと貸してもらってもいいか?」
「えっ、はい」
差し出された仮面をさっと掴んで顔に被せる。そしてすうと顔を上げた。
「蒼葉さん、大丈夫ですか?」
「……ごめんな、嘘だよ」
「え……」
「クリアの顔がよく見える」
向かいあって、少しだけ背の高い彼を見上げると、仮面越しに、その表情がよく見えた。
「す、すみません」
「なんで? クリアの顔、すきだよ」
「蒼葉さん」
「うん?」
「僕は、さようならと、言った筈です。あなたと僕は違う。帰ってください」
先ほどと同じ言葉、だけれど、その声は少し震えて、その表情もはっきりと見えた。
「そんな泣きそうな顔をしてるお前は、俺と何が違うって言うんだ?」
「……」
黙ってしまった彼に、同じ言葉をもう一度ゆっくりと告げた。
「おまえは、誰とも変わらないよ。俺と同じだよ」
「……蒼葉さん。もう二度と、あなたを呼ばないと誓ったのに」
「うそつきクリア。でも、うそが下手だ。ほんとうは俺と居たいんだろう?」
「……」
「蒼葉さん、顔が見えない。仮面を取ってもいいですか」
「やだ」
「……」
「うそだよ」
そう答えると、クリアの手がゆっくりと伸びてきて、そっと仮面を取り去った
「蒼葉さん……泣いてる」
「……おまえが泣かしたんだ」
頬をいくつも、いくつも涙が伝っていくのは止められそうにない。
「えっ、ごめんなさい」
彼が目に見えて慌てる。
「謝るなら、もう戻って来るななんて言うな」
「……」
「もう一度、聞くよ。ほんとうは……俺と居たいんだろう?」
「……はい、蒼葉さん。僕は、蒼葉さんのことばかり考えていたんです。傍に、居たいです」
「……ほら、うそつきだ」
「蒼葉さん」
「いいから、キスしろ」
「……はい」