魔法使いと夜
コツコツとドアをノックする音に意識が浮上する。
「……蒼葉さん、起きていますか?」
続いて、少し控えめな男の声。
「……あ、はい」
「開けますよ」
「はい」
そう答えると、ゆっくりと身を起こした。扉が開く。男は少し部屋を覗き込むと問うて来た。
「食事、食べますか? もう昼ですけど……」
「えっ、ごめんなさい」
慌てて窓に目をやると、もう十分に陽が高い位置にあるのが目に入った。
「いえ、お疲れだったのでしょう」
やんわりとした男の声に、そちらに向き直る。
「……そう、なのかな。えっと、食事嬉しいです」
「はい、じゃあ下で用意していますね」
「ありがとうございます、すぐ降ります」
男はまた軽く会釈すると、ドアをパタンと閉めた。
男――クリアの顔には、またあの仮面が被されていた。朝の光の中で見ても少しびっくりする。機会があったらやっぱりその理由を聞こうかと思いながら、適当に服を直してベッドからとすんと足を床につけて立ち上がった。
石の螺旋階段を下って階下に降りると、食べ物のよい匂いがしていて、ぐう、とお腹が鳴るようだった。
意識すると、酷く腹が空いている事に気付く。確かに昨晩はミルクティしか口にしていないのだから当然なのだが。
カチャカチャと音がする方に足を向けると、そこは台所のようだった。
「あ、おはようございます」
「おはようございます……」
クリアが振り向いて少し会釈して見せる。仮面でその表情は伺えないが、声はやはりやんわりとしたやさしいものだった。
きょろきょろと辺りを見回すと、なぜだか少し不思議な違和感を覚えた。
リビングのテーブルにも、台所にも、何処にもその家具の表面にうっすらとほこりが積もっているのだ。
彼が向かっている調理器具は掃除したのか、汚れてはいないようだったが。
「すぐですから、リビングのテーブルで待っていてください」
「はい、ありがとうございます」
素直に隣のリビングに向かう。しかしそこも同じ状態であった。
昨日は夜で薄暗かったし、暖炉の前のソファに座ってテーブルは使わなかったので気付かなかったが、ダイニングテーブルの椅子を引くと、置いてあった椅子の足の形に丸くくっきりと、埃が積もっていた跡が残っていた。
不思議に思っていると、クリアがタオルらしきものを持ってリビングに入って来た。そして解っていたようで、机の埃を綺麗に拭く。
「あ、手伝います」
「ああ、大丈夫ですよ」
彼はそう答えると手早く拭いて行く。その様子を見ながら、ぽつりとクリアに問うた。
「えっと……最近どこか出かけていたんですか?」
「いいえ、ずっと眠っていました」
「……?」
埃が積もるほど長く?と思うと不思議な感じがする。昨日は酷い埃だったとか?いや、現実的じゃないと思い直す。じゃあ、リビングや台所はあまり使っていないのだろうか。
それならなんとなく、少ししっくり来る気もした。
考えている間にクリアはすっかり綺麗に拭いたようで、台所に戻って行く。その途中にふと振り向いて問われた。
「蒼葉さん、スープとパンでいいですか?」
「ありがとう、十分です」
「貯蔵庫になんとかじゃがいもがありましたので。ちょっと芽が出てましたが…ちゃんと取ったし大丈夫ですよね?」
「あ、食料大丈夫なんですか?」
「いえ、僕はいらないので…すみません」
どういう意味だろうと考えている間に、クリアが食器が載った盆を持って台所から現われた。そしてテーブルの上に少し深めの木皿に入ったスープと、同じく平たい木皿に乗ったパンを置いてくれた。スープからは湯気が立ち、よい匂いがした。パンも手に触れるとまだ暖かく、ふかふかしている。
「あったかい」
「こんなものしかなくて、すみません」
「いえ、嬉しいです」
「冷めないうちにどうぞ?」
「ありがとう」
早速木のスプーンでスープをすくって口に運ぶと、それはジャガイモのミルクスープでとてもおいしかった。パンも香ばしく焼き立てで、そのおいしさに思わず勢いよく口にした。
「料理は久々だったので、お口に合えばよいのですが」
紅茶を持ってきてくれたクリアが、それを置いて目の前に座ると、控えめにそう告げる。紅茶はふたつ、クリアの分もあった。
それを見て、クリアはもう食事を済ませたのだろう、と思い当たる。あの言い方はまるで食べないと言っているようだったけれど、そんなばかなことはあるもんか、と思った。
「いや、とってもおいしいです」
「そうですか、それはよかった」
一通り平らげ紅茶も飲み干すと、お腹が満たされてふっと息をついた。
クリアが席を立つと、紅茶のお代わりを淹れてくれた。静かなリビングがコポコポと紅茶を注ぐ音で満たされる。窓からは明るい日が差し込んでいて、とても平和だ、と思った。そしてそんな風に思うのはいつぶりなのだろうと思う。
「ありがとう」
「いえ」
クリアは自分の分も一緒に淹れて、そしてゆっくり座ると、共に紅茶を口にした。
暫くすると、クリアがぽつりと呟いた。
「今日はちょっとお買い物にいかなくちゃですね」
「そうなのか?」
「はい、ここには食べ物がほとんどありませんから」
そう告げる男の言葉を少し考えて、それはもしかして自分のためなんじゃないかと思った。
「えっと、なんか悪いです……」
「いえ、お気になさらずです。あと、敬語じゃなくて大丈夫ですよ」
「え、えっと……」
「はい、僕のは癖みたいなのでどうぞお気になさらず」
クリアは自分の戸惑いを察してくれたようで、そう告げてまた、ふっと笑ったようだった。
確かに敬語はあまり得意じゃなくて、ちょっとぎこちない自覚もあったけれど。だけれど彼は敬語なのにどうなのだろうと思った。しかし彼は少しもお構いなしで、普通にしゃべってくださいね、ともう一度念を押すと、食器を片付け始める。手際の良さに思わず見送って、はっとする。それはさすがに申し訳なく思い、無理やり手伝うと告げて一緒に台所に運んだ。
食器は大した量ではなかったので、二人がかりではすぐに片付き、クリアは台所の事をあれこれ教えてくれた。
「僕はあまり外には出ないので、殆どのものを乾燥させて貯蔵しているのですよ」
台所の横には貯蔵庫があって、そこは窓がなく、入るとひんやりとしていた。
室内は綺麗に整理され、棚に色とりどりの壜や缶が整然と並んでいる。壜の中身ははっきりとは見えないが、果物や野菜の漬けた保存食のようだった。
「おじいさんがいなくなって、今はほとんど食べ物ないんですよ、なので買い足しに行かないとなんです」
「おじいさん…?」
突如出た名前に思わず問い返すと、彼は少し困ったように首を傾げた。
「はい、僕を拾ってくれたおじいさんです。とてもやさしい方でした」
クリアが柔らかな声でそう告げる。いま、ここにはクリア一人しか住んでいないように見える。聞いてもいいのだろうか。しかし。
「これは小麦粉ですよ、あと少し残っています」
問うべきかすっかり迷い、思わず黙ってしまった俺に彼は気を遣ってくれたのだろうか、明るい声で缶のひとつを手に取る。ぱかりと開くと、確かに残りは少しのようだ。
「これは?」
棚に置かれた薄い緑色の壜に入った白い粉を指差すと、彼が明るく答える。
「それはミルクを乾燥させて粉にしたものですよ」
「へえ、おいしそうだな」
「はい、日持ちするし、ミルクティにするのにいいんですよ」
ふと昨晩のミルクティを思い出した。あれはこの粉を使ったのか。生鮮食品がほとんどないのに、ちょっと不思議だなとは思っていた。