魔法使いと夜



さみしい荒野の果てに、その家はぽつりと建っていた。

そこに辿り着いたとき、辺りはもうすっかりと夕暮れで夜が来ようとしていた。
旅の途中で道に迷い、集落を目指していた筈が、気付いたら森に迷い込んでいた。やっとの思いで荒野に出て、戻ることも出来ずそのまま歩き続けた。
どのくらい歩いたか、まもなく冬がやってくるこの季節に体は冷え切り歩く速度は落ちていき、だけれど気ばかりが焦った。朝も夜も越え、漸く辿り着いた先にその家はあった。
体力はもう限界で、すっかり重い足を引きずるように近づいていった。
家は、大きく古めかしく、だけれどずっしりと丈夫そうで、そしておそらく人が住んでいるのであろう証拠に、窓にはカーテンが掛けられていた。
蒼葉は迷った。だけれど、その迷いはすぐにも消え去り、その家の頑丈な扉の前に立つと、まずはじっと見上げた。古い扉の周りには呼び鈴らしきものは見当たらず、ただ静かにきちんと家を守っているようだった。
少し迷って、だけれどその迷いを振り切るように首を振ると、思い切って握った手でその扉を叩いた。
――コンコン!
乾いた音が思ったよりも大きく響き、少しどきりとした。しかし辺りは未だシン、としていた。時折風が吹き抜ける、ビュウビュウという音が羽織ったマントを撫でて行った。
「すみません、誰かいませんか?」
懸命に呼びかけた問いかけは風に散らばり、屋敷の奥には届きそうになかった。
もう一度叩こうかと握った手を重く感じながらのろのろと上げた時、その家のとても奥の方から幽かな足音が聞こえて来た。



「……どうぞ、こんなものしかありませんが」
柔らかい男の声だ、と思った。屋敷の入り口に現れ、事情を説明するとすぐにも招き入れてくれた男は、暖炉の前に自分を案内すると火を入れ、すぐさま奥に消えて行った。
そうして戻ってきた手には暖かそうな湯気を立てるマグカップが握られていた。
そっと差し出されたマグカップを手に取ると、ふわりと良い匂いが鼻を掠めた。たっぷりミルクの入ったミルクティの香りだ、と思った。
「いいえ、ありがたいです、ありがと」
ずっと荒野を歩いて、日が落ち、冷えた体にはあつあつのそれは染み渡るような味だった。
「……いいえ」
やさしくそう答えると、目の前の男は少し笑ったようだった。
ようだ、というのはなぜなら、その男はなぜか不思議な仮面を被っていたからだった。



その日は夜も遅いからと、会話もそこそこにそのまま泊まってもよいことになった。
「では、部屋に案内しますね」
「ありがとう」
男について居間を出て、ぐるりと螺旋状を描いた石の階段を上がる。外観から察する感じだと屋敷は広く、三階くらいはありそうだった。二階で曲がり廊下を歩く。階段も廊下もしっかりとした石造りで少しひんやりとしていた。ゆらゆらと彼が手にしているランプの明かりが揺らめき、コツコツと二人分の足音が廊下に響く。しかし不思議と怖いとは思わなかった。
男はシンプルな白いシャツに、深い緑色のパンツ、白いブーツを身に着けていた。シンプルだが、品はよいものだ。あとなぜか白い手袋と、そして不思議な仮面を被っていた。
その仮面の理由がとても気にはなったが、おそらく何か理由があるのだろうし、容易く触れてもいいことなのか迷った。男自体は悪い人間ではない気がしていたし、長旅で体も酷く疲れており、また機会がある時に聞けばいいかなと言う心持であった。
「ここですよ」
彼がひとつのドアを示した。それは、廊下の雰囲気とは違って、温かみのある木で造られたドアだった。花や葉っぱを模した綺麗な細工が施されている。
彼の背について、その木のドアをくぐると、中はこじんまりとした可愛らしい部屋だった。
窓にかけてあるカーテンは少し色あせてはいるが、可愛らしいパッチワークで彩られている。
男が壁のランプに手元のランプから火を移して灯りを入れると、部屋の隅に移動する。
使っていなかったからシーツを被せてあったのだろうか。男が覆われた布を取り去ると、その下から木でできたベッドが現れた。そのベッドにもかわいらしいパッチワークのカバーが掛けられている。
部屋の真ん中に置いてある丸いテーブルと小さな椅子も温かみの木製で、縁に花の模様が彫りこまれていた。そして大事に手入れされているのだろう、丁寧に磨かれている証拠のように表面がつるりと綺麗に光を跳ねていた。

「では、ごゆっくりお休みください」
男は入り口まで戻ると、静かにそう告げた。
「ああ、ありがとうございます、えっと…」
「はい?」
少し迷って、だけれど真っ直ぐ問うた。
「何と、お呼びすればいいです?」
「ああ、クリアと呼んでください」
男は直ぐにそう答えた。やさしく柔らかい声だった。
「ありがとう、クリアさん」
「クリアでいいですよ」
そして不意に、自分も名乗っていなかったことを思い出して少し恥ずかしくなる。
「ありがとう、クリア。俺は蒼葉です」
「はい、蒼葉さん」
「えっと」
呼び捨てでいいと言った方がいいのだろうか。少し迷っている間に、男は少し会釈すると、そのままするすると部屋を出て言った。パタン、と静かにドアが閉められる。まあ、いいかと思った。
やけに丁寧な男を何者なのだろうとは思う。だけれど、男を怪しいと言うのならば、こんな夜更けに一人旅をしている自分の方が余程怪しいだろう。それに、仮面の奥から聞こえる少しくぐもった声は、酷くやさしく柔らかいものだった。
ベッドに歩いて行ってぼすんと寝転ぶと、じわじわと体に疲労を感じた。安堵したからだろうか、急に重く感じられる体をシーツの隙間に押し込むと、すぐにも睡魔が押し寄せて来た。
うとうとしながら、その男のことを考える。不思議な仮面を被った、少し変わった男。髪は銀で、暖炉の明かりに細かく煌いていた。肌は透き通るように白い。そして、やんわりとしたやさしい声をしている。その声を思い返しぼんやりとすきだな、と思ううちに眠りに落ちて行った。